Kasumiの独り言特選集 1

リクエスト

100000カウンターHIT記念にみなさまにご協力いただいたアンケートから
今までの「HITORIGOTO」厳選集を作りました。

みなさまからのアンケートの中で一番多かったのが意外だったけれどこの「うさぎパン」。
ふと昔を思いだして書いたこの話、たくさんの方に揚げていただきました。

うさぎパン

OLをしていた頃、会社の敷地内に小さなスペースを借りて昼だけパン屋さんが来ていた。

おじさんとおばさんが2人でやっていた。
サンドイッチや菓子パン、ごくごく普通のパン屋さん。

私は自分でお弁当を作っていたのであまりパンを食べることは少なかったけれど、
上司などに頼まれて買いに行くことは何度もあった。

おじさんとはすぐに友達になった。
魚屋でも八百屋でもそうだけど、おばさんというのはどうもシビアで、おじさんほどおまけをしてくれない。

「おじさん、うさぎパン作ってよ」
と言うと、そんなのはない、と断られた。
時々言ってみるのだけど、いつも「そのうちな」と言われておしまいだった。

2年半ほどその会社にいた。
退職することを決めた時、おじさんにも挨拶に行った。

「あのねー、私、もうすぐ辞めるの。ダンサーになるんだ。」
そう言うとおじさんはわははと笑って本気にしなかった。
それでも、何度も本当だよと言い続けているとちょっと淋しそうな顔をして「本当に辞めるのか」
と言った。

最後の日、お弁当を作らないでパンを買いに行った。

すると、おじさんは棚の裏の方に隠してあったラップに包まれたパンを私にくれた。
ラップを開けなくてもその形ですぐに分かった。

うさぎパンだった。

「おじさん!ありがとう!ありがとう!」本当に嬉しかった。
「おじさん、これからもずっと、元気でね」
私はうさぎパンがつぶれないようにそっと持って、走って事務所に帰った。

おじさんが私のために一つだけ作ってくれたうさぎパン。
チョコで目やひげが書いてあって、中にクリームが入っていた。

おじさんは今でもあそこにパンを売りに来ているのかな。
おじさん、私はあれから本当にダンサーになったんだよ。

最近ので一番すきなのは、「うさぎパン」とっても素敵なお話でした。(Kimさん)
 
会社を辞める時にパン屋さんが特別にくれたパンの話(akieさん)
 
一番印象に残ってるのはOLを辞めるときのパン屋さんとのやりとりの話。
切なくて、でも新しい旅立ちの別れで涙流して読んだ記憶があります(yukiさん)

次はこの3つが同点でした。

教師ではなく、ダンサーとして、自分自身に向き合って生きている時間の独り言です。 

 ■ もしもこの脚が

私の脚はことごとく踊りには向いていない。
身長が低くても、バランスが良かったり脚がすらっと長ければそんなに見劣りしないものなんだけど、
(コールドでなくソロを踊れるくらいになればいいことだから)
ポジションに入れることも出来ないくらいのO脚。
股関節は開いてないし、何しろ膝のお皿が脚の内側にむいてついている。

これじゃあいくら頑張ってターンアウト(股関節を外へ回し開くこと)しても普通の人よりも
もう15度くらい余分に回さなければ同じにはならないというものだ。

おまけにまだある。
足首が内股だ。力を抜いて自然に任せると爪先は内側へ内側へと入っていく。
甲もない。甲があればトウシューズを履いた時にとてもきれいに見えるし立ちやすい。
バレエをやる人なら誰もが憧れるのは甲高な足である。

そんな悪条件の中、なぜこの仕事を選んでしまったのか?
自分が苦しいのは最初から分かっていたことだ。
いや、やればやるほど身にしみて思い知らされると言った方がいいかもしれない。

おまけにあちこち怪我をしているので伸びきった靱帯は
言うことを聞かず、曲がった腰椎は背中を更に固くさせる。

それでも、毎日少しでもターンアウト出来るように、ぎりぎりと回し、
外側の筋肉を使うとますますO脚がひどくなるので内側を使って立つことを心がけ、
足の裏の筋肉を鍛えることで中から甲を作り上げ、
心の中で歯を食いしばりながら何十年もやってきた。

だからもし神様が、あなたはうんと頑張ったから
踊り向きの美しく強靱な脚と取り替えてあげましょう、と言ってくれて、
その美しい脚と、私の傷だらけのどうしようもない脚が
並んで置いてあったら、私は迷わず自分のみにくい脚を選ぶだろう。

この脚が道路に捨ててあったら、拾ってまた大事にする。

夜寝る前に毎日のように「あと3cm脚が長くなりますように」などとお祈りしたりしてるけど、
ずっとずっと一緒に頑張ってここまで作り上げてきた脚だもの。
私はこれからもずっとこの脚で踊り続ける。

   

 ダンスに対するひたむきな姿が胸をうった(はじめてバレエさん)
 

 

やさしさ貯金

人は心の中に貯金箱を2つ持っていて、何か嬉しいことや楽しいことがあった時には
プラスの貯金箱にしあわせがたまっていく。

誉められたり、ねぎらわれたり、そうだね、そうだねと聞いて貰ったり、尊敬されたり、頭を撫でて貰ったり。

反対に侮辱されたり、叱られたり、無視されたり、認めて貰えなかったり、ぶたれたり、すると
心の中のマイナスの貯金箱の中にふしあわせがたまっていく。

誰もが2つ、持っている。
プラスの貯金箱の中には、その人が小さい頃からずっと親に貰い続けているやさしい語りかけや、慰めや、
スキンシップがたまっているから、大きくなって誰かにマイナスの貯金箱にふしあわせを入れられても、
ちょっとやそっとのことではめげないでいられる。

バランス良く入っていれば、決して船は沈没しない。

プラスの貯金箱にたくさんのものが入ってる人は他人にも同じようにしあわせをわけてあげられる。
なぜって、しあわせは誰かにあげても減ることはなく、気がつくと自分のプラスの貯金箱の中身は
増えてさえいるのだ。

けれども、プラスの貯金箱に何も入っていない人は、誰かにそれをあげたくてもあげることが出来ない。
しょうがないから自分の持っているマイナスの貯金箱の中からお返しをするのだ。

そして自分の中のマイナスはどんどん増えて行ってしまう。

どんどん増やそう、プラスの貯金。心を込めて人と付き合おう。
みんながしあわせになりますように。
 

何といっても、『心の貯金箱』は、感動しました。お友達に、話してあげたら、やはりとても感動していました。
 (Amiさん)
「やさしさ貯金」なんて、聖書にでてきそうなお話ですね〜。このようなお話を若い世代(10代)の方が読む機会があるというのは、彼女達にとってとても貴重なことだと思います。(ミニーマウスさん)
 
やさしさ貯金が一番すき。私も。。。って思います!(あささん)
辛い状況の中でまず思い出したのは、7月1日の「独り言」。。。やさしさ貯金でした。
無視されたり、認めてもらえなかったり、愛されなかったりすることがどれだけ人に痛手を与えるのか。
優しくされたり大切に扱われた記憶が、どれほど自分を守ってくれてるのか。(NARIさん)

 

 

インタビュー

くんくんの学校の宿題で、「仕事についてのインタビュー」というのがあった。
インタビューに答えたのは私だった。

何故この仕事を選んだか?
一生、踊っていたかったから。
くんくんは「一生〜?」となぜかゲラゲラ笑っていた。

それから踊ることの楽しさをたくさんの人に伝えたかった。
みんな、ありがとうございました、って言うもんね、とくんくん。

辛いのは・・・代わりがきかないものが多いので、風邪をひいたり怪我をした時も休めないことかな。
くんくんは大いに頷く。
決して体の強くない私が、家で立っていることも出来ないくらいひどい状態の時も、
仕事に行くのを見てきているからだろう。

失敗談。
思いつくのは人の失敗ばかり。
ゲネプロで2人で踊るシーンなのに相手がいない。
仕方なくソロで踊って楽屋に帰ったら相手の彼女、トイレに入っていたらしい。
かなりバタバタなゲネプロだったので始まっていたのも知らなかったらしいけれど、笑える。

これは失敗ではないけれど、これもゲネプロで相手役の男性が鼻血を出していた話もしてあげた。
くんくんにはうけていたが、人の話じゃしょうがない。

「あんまり失敗しないからなあ」とよくよく思いだしてみたらハケる音を間違えて早くハケてしまい、
先頭だったために全員ついてきてしまって、場が空っぽになった事があった。
リハーサルの回数が少なかったその仕事、みんな私をかなり頼りにしていたらしい。
舞台裏で間違えに気付き、みんなで大笑いしたのを思いだした。
本当は笑ってる場合ではないのだけど、雪の降る野外ステージで寒さのために、みんな
異様なテンションだった。

やり甲斐を感じる時。
自分の踊りを観て心から感動したと言ってくれる人がいた時かな。
自分が満足のいく踊りを出来たらそれでいいのだけどやはり誰かに認めて貰えるのは嬉しい。

そんな話でインタビューは終わった。
話を聞いて感想を書く欄があった。
あとでそっとのぞいてみると

「自分はダンサーにはならないが、やはり仕事というのはお金のためだけじゃない。
人のために何かしたり、人に喜ばれるようなことをするのが仕事だと思う。」と書いてあった。

ふふん。
もしかしたら理解者はこんなに身近にいるのか、と思った。

 最近ではくんくんのインタビューのとこです。鼻血のとこが受けた!(sakiさん)

 次に多かったのがこの「母からのメール」。
私自身の書いた言葉ではないけれど、自分もひどく感動したので独り言に載せました。

母からのメール

母も自分のPCを持っているので、メールで連絡を取り合ったり、近況報告をしたりすることがある。
電話だとお互いの生活のペースが全く合わないからだ。

もう随分前になるけれど、本を読んでいたらものすごくいい文章があったとメールが来た。
以下、引用。

****
〜主と共に 海岸を歩いている夢を見た。
空には私の人生のさまざまな場面が映し出されていた。

それぞれの場面の下の砂の上に二組の足跡があるのに気づいた。
一組は私のもので、もう一組は主の足跡だった。

人生の最後の場面が目の前に映し出された時、
私は 歩いてきた砂の上の足跡を振り返って見た。

よく見ると、私の人生の多くの場面で、足跡が一組しか無い時があるのに気が付いた。
また、私の人生でもっともうちひしがれた悲しみの時も、足跡は一組しかなかった。

私は主にそのことを問いただした。
”主よ、主に従う決心を一度したら、主はずっと私と共に歩いてくださるとおっしゃいました。
なのに、私の人生のもっとも困難なとき、足跡が一組しかありません。
主がもっとも必要だったときに、なぜ主が私を見放されたのかわかりません。”

すると主は答えられた。
”我が子よ、おまえのつらい苦しみのときに、おまえを見放したことはない。
足跡が一つしか見えないとき、
私はおまえを 背負って歩いたのだ。”

*****
涙がうわっとこみあげてきた。

 

 お母様からきいた海岸での神様の足跡の話私のまわりの両親や友人、先生、仲間達・・・
たくさんの「神様」の足跡がみえる気がしました(まみかさん)
 
ツラい時足跡が1つしかないのは、背負って歩いていたのだよの話(かっきさん)
 
これを読んでから毎日アクセスするようになりました(EVEさん)
振り返ったら私の周りにはきっともっともっとたくさん足跡があるんだろうな。両親、友人、同僚・・・ 
そして大好きな先生、あらためてみんなにありがとうという気持ちになりました(まみかさん)
 

 以下、数名の方にリクエストしていただいたものです。

桜の枝を折ってはいけません。
たとえ山の中の桜でも、道路沿いの桜でも、人の家にゴミを捨てるのと同じくらい悪いことです。
みんなが「一枝だけなら・・」と折ってしまったらたちまち桜は丸裸になってしまって、
1年待ち続けた人達は桜を楽しむことが出来ません。

「このくらいなら・・」とみんなが空き缶を捨てたらそこはゴミの山になってしまうのです。

だけど、私は桜の枝を一度だけ、折ったことがあります。

その人が最後のお別れの電話をかけてきたのは夕暮れが近づいていた、ある3月の事でした。

あと1年の命です、とお医者さんに言われてからあれよあれよという間に症状が悪化して、
1年のはずがわずか1ヶ月となってしまいました。
それがお別れの電話のつもりだということは私にも分かっていました。

“I wanna show you my garden.”
アメリカ人の彼に日本の一番きれいなものを、最後に見てもらいたかった。
日本の桜を・・・。

さよならの言葉と涙はなしに、電話を切ったあと、
私はほとんど衝動的にポケットにはさみを入れて車に乗り込みました。

暗くなった空に浮かんだ桜並木の下に車を停めて、私は手を伸ばして一枝の桜を折りました。
ポケットにしのばせていたはさみで。

「ごめんね、ごめんね、桜」

いつも陽気なold songが流れているはずの、その人の家につくと、
私は桜の枝をその人の枕元に飾りました。

“I wanted to get more big one、but...”
そう私が言うと、いつものいたずらそうな目を一瞬見せてその人は笑いました。

その人の前では決して泣くまいと決めていたので、帰り道、わんわん泣きながら車を運転して帰りました。

それからもう、3回目の桜の時季が来ました。
今でもその桜並木の下を通ると、その人の思い出と共に胸がせつなくなります。
そしてあの時、体の一部をくれた桜に、「ありがとう」を必ず言います。

私が桜の時季になると物思いに耽るのは、そういうわけなのです。

 

 

ラーメンの食べ方

品川の駅構内にあるラーメン屋はいつも混んでいる。特別美味しくもまずくもない。

混んでいるときはたいてい相席だ。
私とその日、相席になったのはちょっとお水風のおばさま。
席に着くなり煙草を吸い始める。
禁煙タイムじゃないことが残念でならない。
出来るだけ息をしないように、顔を煙の通り道にむけないようにさり気なくしていたけれど、
もしかしたらそれがばれていたのかもしれない。

その人はチェーンスモーカーだった。
ラーメンが来るまでの間、ビールを飲みながらもずっと煙草を吸い続けていた。

お互いのラーメンが来て食べ始める。
しばらくしてその人が何か言っている。よく聞き取れなかったけど文句のようだ。
「え?何ですか?」聞き返すと
「ズルズルうるさいんだよ!」と煙草で喉がつぶれてしまったような声でその人は言った。

すごくびっくりした。
「らーめんってこうやって食べるんですよ。」と言ったあと「フランス料理食べてるんじゃないんだから」
そう付け足した。

するとその人はなぜだかあははと笑った。
何に対しておかしかったのか分からないけど(だってそのあとはまたこわい顔に戻っていたから)

「この方がおいしいですよ」私はおかしくなって、笑いながら言った。
それなのに、これ以上何か言ったら目の前のコップの水を頭からかけられそうな空気がその人から
発せられた。

そしてまた私達は無言でラーメンを食べ始めた。

見ると、その人はらーめんを少しずつレンゲに入れて、音をたてずにそっと口へ運んでいた。

すっかりきれいに食べ終わって私は席を立った。
その人のどんぶりにはのびてかさが増えたらーめんがこんもりしていた。

「お先に!」
のびたラーメンとたくさんの吸い殻とその人を置き去りにして私は店を出た。

 「そばは音をたてて食べるもんじゃ!!」って、なんかとても共感しました!!
長い時間かけて、のびのびになったソバなんて、おいしくないじゃんねーーーと(namiさん)
 
どこかの駅のラーメン屋さんで隣に座った女性がチェーンスモーカーだった話(たえこさん)

 

クラクション

今まで車のクラクションを鳴らしたことは数えるほどしかない。
免許を取って10年以上にもなるし、毎日のように運転するけれど。
何故かというとあの音がうるさくてキライだから。
時々、腹いせのように何十秒もブーブー鳴らし続けている人をみるけど、頭がおかしいのではないかと(いや、心か?)思う。
自分はそれですっきりするかしれない。でも、まわりにたまたま居合わせた人はどうか。不愉快で何だか怖くてイヤな気持ちを共有させられてしまうのだ。
もともと警告のためについているのだから、抜かされたり横入りされた仕返しのように使わないで欲しい。クラクションの音は何百Mも離れた所まで鳴り響いてしまうから自分のイライラで何千人の人を巻き添えにしていることに気が付いているのかおかまいなしなのか・・・。

クラクション嫌いなためにヒヤッとした覚えもある。
左側から出てくる右折車で、たまに右を全然見ないで頭を出してくる車がある。たいていがおばちゃんだ。日本は左側通行なのだからまず、右を見て、と習わなかったのだろうか?自分の行きたい方向ばかりに気を取られて最初に横断する左車線を見ない。そろそろ気付いてくれるかな?とコンマ何秒の判断でクラクションを鳴らすかどうか躊躇う。付近住民の皆さんの為に、出来れば鳴らさずに走り去りたい。
だけど、やっぱりこっちを見ないで道路まで飛び出して来る車がいて、「あ〜、やっぱり鳴らせば良かったか」と思うのです。

ありがとう!の意味で軽く鳴らすつもりが、思いの外強く押してしまって文句を言ってるみたいに鳴ってしまうこともある。相手にしてみれば、「譲ってあげたのに文句を言い捨てていくとは何事じゃ!」と思っただろうか?「恩を徒で返す」という言葉がこんな時には脳裏をよぎる。
車会社の人、クラクションを2種類にして下さい。何ともやさしい音色のふんわりした気持ちになるものをつけて欲しい。これは「お先にどうぞ」とか「譲ってくれてありがとう」といった時に使ったりする。それから駅までお迎えに行ったときに
「おまたせ」と人に合図するときや。
そんなクラクションがあったら、私は毎日鳴らしてしまうかもしれない。

  

 優しい気持ちになれるクラクションがあればいいのにの話(かっきさん)

誰かに読んでもらう為と言うよりも、一度自分の人生の中で
吐き出してしまいたかったこと・・・長くて独りよがりで、申し訳ないかなと思っていた
けれど、数人の方に共感していただけて嬉しかったです。

器械体操にかけた青春 パート1

子供の頃、バレエを習っていた。
家庭の事情でやめなければならなくなったけれども、中学に入ったときに姉が
「バレエに似てるクラブがある」と教えてくれて入ったのが「器械体操部」だった。

入ってから気が付いたのは、レオタードを着ると言うことの他は1つも似ていないという事。
でも、木登りや飛び跳ねるのが大好きだった私にはこっちもいいかもしれない、とワクワクした。
毎日放課後が楽しくて楽しくてたまらなかった。
「先輩」という特別な人達が出来たのも嬉しかった。

ある時顧問の先生が大会のお知らせを持ってきた。
希望者はいないかと言うので私が当然の如く「はーい!」と手を挙げたら、先生はチラッとこっちを見て
「恥をかいて来なさい」と一言。
どういう意味なんだろうか?と思いつつも大会に出られる事が嬉しくて大喜びしていたら、2、3日後に部長が
私にこっそり言った。
「あの時あんな風に自分に素直に手を挙げられるあなたが羨ましかった。」と。

どうやら大会に出ると言うことは特別なことらしい、とその時になって気付いた。
そんなわけで私の初めての大会経験は、これは体操の点数?と思うような驚異の点の低さで幕を閉じたが
いろんな学校の代表の素晴らしい演技を目の前で見て、ものすごい刺激を受けて帰ってきた。

それから私はあの人達に少しでも近づきたいと猛特訓。でも最初の不幸はそのすぐあとに訪れた。
「転校」・・・これも家庭の事情で有無を言わさずに決まった。

友達と別れるのと同じくらい体操と別れるのが辛かった。転校先の学校には体操部はないという。
顧問の先生が「たまには遊びに来なさい」と言ってくれたので転校してしばらくは週に1回は前の学校に
体操をやりに行っていたが、HRが終わってすぐに電車に乗って走って学校に行っても着いた頃にはクラブ
活動も終わりに近い時間。焦りは空しさに変わり、そのうち前の学校に顔を出すこともなくなっていった。

転校先の学校では昔、体操部があったらしく、渡り廊下に平均台が置かれていた。
私はよく休み時間になるとその平均台に上りに行った。
何とかしてこの学校で体操部が作れないものかと思い、友達に声をかけていた。
校庭や体育館でとんぼがえりや側転をしている転校生の私に、はじめのうちはみんな冷たかった。
「かっこつけやがって」とか「目立つんじゃない」とか言われたけど、自分ではそういうつもりでやっているわけ
ではないので、やめなかった。 

私には体操部を作りたいという目的があったから。

そのうち友達が増えるにつれ、悪口をいう人もいなくなってきた。
クラス替えで一緒のクラスになると「あの時かっこつけやがってとかいってゴメンネ。本当は羨ましかったの。」
と謝ってきてくれる人も何人かいた。

3年生になったときには誰も悪口を言う人はいなくなり、体操同好会に入ってもいいと署名してくれた人は15人になった!
15人以上いれば同好会として認められるという校則があるので、ずっとずっと地道に布教活動を続けてきたのだ。

喜び勇んで職員室にみんなの名前を書いた紙を持って行った。
それなのに返ってきた言葉は
「もう受験のことを考えないといけない学年だからそんな事をしていないで勉強しなさい。」

1年半かかってやっと集めた署名なのに・・・。あの時の脱力感といったら人生の中で5本の指に入るほどだ。
そして私は泣く泣く体操をあきらめて、高校こそは体操部のある所へ入ってやる!と心に強く決めたのである。

そして1年後の春。
入学式の翌日に体操部の部室のドアを叩く。そして私の体操人生パート2は始まった。

高校ともなるとレベルも高くなる。段違い平行棒が種目に加わり、跳び箱は跳馬に変わる。
HR終了後の掃除もほとんどせずに体育館にダッシュ。楽しい時間がよみがえった。
夏の合宿では朝から晩まで体操漬け。幸せで泣きたいくらいだった。

でも、それも長くは続かなかったのが私の悲劇だ。
先輩と新1年生の間でトラブルがあったらしく(なぜか私のいない時にそれは起こったらしい)
ナント、私以外の1年生とマネージャー以外の2年生の先輩が辞めてしまった!
おまけに3年生は引退しているので実質選手は私一人となってしまった。

「途方に暮れる」というのは多分ああいう事を言うのだろう。
私が何をしたというのだろう?やっと心おきなく体操が出来ることになったばかりなのに。

体操ほどコーチが必要なスポーツはない。
ちょっと考えてみて欲しい。「さあ、バク宙やってみなさい」と言われて一人で勝手に出来る人がいるだろうか?
せめて、補助してくれる人間がいなくては首の骨を折るだけだ。また振り出しだ。

それでも私は勿論、辞めなかった。マネージャーがいないときは一人で黙々と重たい平均台や平行棒を出して
(セッティングだけで30分以上かかっていたが)歯を食いしばってやっていた。

そんな姿を見てダンス部や卓球部の友人達が手助けしてくれることもあった。
有り難かった。新人戦もたった一人で出た。

そして3学期の最後に「3人以上いない部は廃部」という話を聞き、この世に神様はいないに違いないと思った。

そんな話を聞きつけてかすみちゃんがこんなに頑張っているのに廃部なんてひどすぎる。
名前だけでいいのなら、と体操部に入部してくれたクラスメートが3人。
彼女たちがいなかったら私のその後はなかった。

■3

2年生になった。
新入生歓迎会で平均台をパフォーマンスしたのがきいて、新入生が4人も入ってきた。
一度辞めた同級生も戻ってきて独りぼっちだった体操部が一気に賑やかになった。

更に素晴らしいのはコーチがきたこと!
1年だけの契約で非常勤講師としてきた人が元体操部だと聞いて、直談判しにいったのだ。

それからの1年は私の体操生活の黄金時代だ。
指導者を得て補助する人間を得て、今まで出来なかった技をどんどん自分のものにしていった。
本で読んではコーチに「この技を教えて下さい」と頼んだりした。
コーチと体育館でバク転競争をしたり(どっちが早く体育館の端まで行くか)して

「オマエならもうどこへ出しても恥ずかしくない」

と言って貰えた事は自分にとって最高のご褒美だ。2年生の新人戦ではいいところまで行く自信があった。
しかし!ここですんなりと行かないのが私の人生。

なんと顧問の先生(コーチではなく名前だけの)の勘違いで新人戦の日にちが違っていて、出ることが出来なかった!
恨む?それは気力のある人に生まれる気持ちだ。何度目の不幸だろうか。

そして私は3年生になった。コーチもいなくなった。他の同級生は受験のために4月に引退したいと言う。
私一人残るわけにはいかずに形の上で引退が決まった。

それでもどうしても春の大会に出たくて一人悔しがっていたらたまたま遊びにきていたコーチの鶴の一声で
私だけ5月の大会に出場できる事になった。引退試合だ。

ずっと成功させたかった技があった。
1年前に失敗して平均台から落ちた。今回だけは!と強い思いで練習に励む。
腰が痛んだけれどもそんなものは我慢すればいいだけだ。
私の体操にかけた想い・・・やりたくても次々と降りかかる悲劇と不幸。
最後は笑って納得して自分で幕を引きたかった。

そうやって迎えた春の大会。最後の大会。平均台の技も成功。
床運動でも自分の中では完璧だった。平行棒も跳馬も悔いはない。

■4

最後の大会のあと、私に残ったのは初めての達成感とひどい腰痛だった。
内科の病気でレントゲンをとったときに分かったのだが、腰椎がひどくずれていた。
かがむことが辛い。
器械体操は着地時にものすごい衝撃を関節に受けるし、人間の日常からかけ離れた体勢を強いられるので
本格的に長く続けていれば100人中100人怪我や故障から逃げられない。
それでも私にとっては本望だった。

ほぼ、1年間反る事が出来なかった。ひどい時はコルセットをしていた。
それでも若かったからか痛みがひいてしばらくするとまた体を動かしたくてたまらなくなった。

そして目を付けたのは「ダンス」。もう命を懸ける大技は出来ないけど「ダンスでもやるか」感覚だった。
それがその先の私の人生を変える運命の出会いだとはつゆ知らずに・・・。


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最後まで読んで下さってありがとう。いつか、残しておきたかった。
度重なる運命のいたずらにも負けない私の体操への想い。

浄化された?

不思議なことだ。
この「独り言」に器械体操に対する想いを書き終わったその夜、夢を見た。

マットの上で心おきなくバク転をして、伸脚の倒立前転なんかも気持ちよくやっている。
これは今までにない事だ。

この二十年以上の間、体操の夢はたまにみるけれども(いまだに)
それはいつもいつも「体育館に行ったらもう誰もいなかった」「大会で遅刻して出場できなかった」
「マットをしいてる間に時間が終わってしまった」「バク転をしようとしても腕に力が入らなくてくにゃっとつぶれてしまう」
などといったやりたかったのに出来ない状態の夢ばかりだった。

それが、この前は実に気持ちよくすいすいといろんな事をやっているのだ。

朝、起きたときに分かった。
これは「独り言」に書くことによって今まで誰にも解って貰えなくて心の中にくすぶっていた悔しい想い、
それが成就(または浄化)されたのだ。

読んでくれる人がいて、書くこと・・・それは自分にとってものすごく意味のあることだったんだ。
もう、多分体操の夢は見ないと思う。
見たとしてもきっと、宙に体を舞わせて気持ちよく楽しんでいる夢に違いない。

ありがとう!読んで下さっている人達。器械体操よ、夢と希望をありがとう!

 

 器械体操にもえていた学生時代のお話かなぁ〜。やっぱり今のKasumiさんがどういう道をたどって今にいたるのか、
日記を通して知ることができて、印象に残っています。(namiさん)

 

チェンジ・マーメイド

器械体操をやっていたのでそれをいかしたバイトをしていた事がある。
遊園地などで戦う正義の味方。「電光戦隊・チェンジマン」

「エイ!」とチョップをすると悪者が勝手にバク転しながら倒れてくれるのでとても気持ちがいい。
ついつい調子に乗って台本にない動きまでしたくなる。

私は女だから「チェンジ・マーメイド」だった。注)チェンジマンには珍しく女が二人いた。

初めて衣裳をつけて本番をやった時、ビックリしたのはマスクの重さ!
まるで原チャリのヘルメットをかぶってバク転するようなものだったから、頭をついてしまった。
痛かったけど、本番中なのでそのまま戦いを続行した。

するとしばらくして「チェンジ・青」(名前忘れた)がやってきて、そっと小声で「マーメイド、頭、割れてる」と言った。
「げ」 さっきバク転で頭をついた時にはずれたらしい。

建物の陰で割れたマスクをカチッとはめ直し、また戦いに参加した。
悪の手下どもがどんどん倒れて行くのでお調子ノリノリでやっていると、ステージの方から「マーメイド!早く!」
というみんなの声が聞こえた。

「え?」いけない、悪のボスを倒すのに5人力を合わせて「チェンジ・キック」をする段取りを忘れていた。
これは5人の足が円になってちゃんと揃わないとボスは倒せないことになっているショーのクライマックスだった。
急いでステージに戻り、4人がキックの為に足を揃えているところに自分も参加した。
走り込んでキックしたので勢いあまって「スポッ」履いていたブーツが脱げた。
女役でも男性がやることが多いのでブーツは実はかなりぶかぶかだった。
それでも効果音は鳴り響き、悪のボスはうめき苦しみながら倒れた。

最後は「チェンジマン」の歌をみんなで歌ってお別れだ。
「よいこのみんな、また、会おう!」わっはっはっは

子どもの頃の思い出話が好きだと書いて下さった方も案外多く、
嬉しく思っています。その中から3つほど選んでみました。

子供のころの思い出話が好きです(月子さん) 小さい頃の話(YUKIEさん)

シーモンキー

子供の頃は引っ越しばかりだった。3年するとまた違う所に引っ越し。
別に転勤族ではなかったけど、色々事情があった。

そのせいかどうかはわからないけど、いや、きっと違うな、(これ、ホントの独り言)小学校4年生くらいの頃、
私だけの仲良しの友達が欲しくてたまらなかった。
学校へ行けば一緒に遊ぶ友達はいたし、誕生会に呼んでもらうこともあったけれど、心の友が欲しかった。

ある時デパートで「シーモンキー」というものをみつけた。
紙の筒に絵が描いてあって、ヒョロヒョロで・・まるでろうそくみたいな・・
肌色をしていた。水の中を何十匹も泳いでいる絵だ。
その中の1人が「お友達になろう」と台詞の吹き出しで言っていた。

この生き物は何なんだ?!
私はものすごく驚いた。友達が売っているなんて!
しかも説明を読むと水にこの中のものをとかして何日かするとこのお友達がぞくぞくと生まれるというのだ。

私の話を聞いてくれるかな?
学校から帰ったら「おかえり」って言ってくれるかな?
一緒に笑ったり出来るかな。やさしい性格だといいな。
想像がどんどん膨らむ。
どこにでも連れていこう。自転車に乗せて。
小さいみたいだからポケットの中に入れて学校にも一緒に行けるかもしれない。

いくらだったか値段は覚えていないけど、10歳の子が買える程度なのだろう。
私はいよいよ「お友達」を買って帰った。

誰にも知られたくなかった。内緒の私だけのお友達にしたかった。

だけど・・・
何日待っても、何週間たっても、私のお友達は生まれなかった。
小さすぎて見えないのかな?と思って目を凝らして何度も見たけど、小さな肌色をしたヒョロヒョロくんが
「かすみちゃ〜ん」と呼んでいる様子はなかった。
ただ、水が白く濁って虫がわいているような感じがした。

「ちぇっ」お友達が買えるなんて、嘘だった。
騙されたんだ。せっかく楽しみにしていたのに・・・。とっても悲しかった。

私は濁った水を捨てた。
もしかしたら姉や弟にばれて笑われたかもしれないが、もう、覚えていない。

シーモンキー・・・何だったのだろう?

大人になった今、ふと思うのがもしかしたら何かの微生物だったのかなあ、というかすかな疑問。
だとすると、私はお友達を流し台に流してしまったのか?

でも、もういい。
私だけのお友達は空想の中だけに生きている。

 

ちびっこ団

7歳か8歳くらいの頃、4人くらいのグループを作っていた。
グループの名前は忘れたけど、私は女ボスだった。
人前で大きな声が出せない、恥ずかしがり屋の女の子だったのにそういう中では何故か大将だった。

そのグループのメンバーは私以外男の子だった。
グループには掟があり、とんぼ返りが出来ないと入れなかった。
そして、何か人よりも秀でた技を持っていないと仲間には入れない。

「入れてくれ」と来る子は、メンバーとたたかって勝たないといけないのだ。

ウメノくんと言う子がいた。
彼はとんぼ返りは出来なかったけれど、クラスで一番かけ算の九九が早かったので、特別に参謀として仲間に
入れていた。
ウメノくんはちょっと舌ったらずだったので、ラリルレロの発音が少しおかしくて、「ろ」が「ど」になってしまう。
だから彼の6の段は面白い。
「どくどく・さんじゅうどく!」ウメノくんに九九で勝てる子はいない。

モモセくんという子がいた。彼は足がメチャメチャ速かった。
かけっこで彼に勝たなければ、グループに入れない。

結局メンバーは増えもしなければ減りもしなかった。
そして私はクラスが変わる前に誰にも何も告げずに転校した。

 

貧乏軍団

中学生の時に友達と3人で作った。
徒党を組んで歩くのは好きではないけどこういうくだらない小集団をひそかに
作るのは好きだ。

他の2人はとても美しい顔をしていた。
個性はそれぞれだったけれど、独特の美意識を持っていた。
そんな彼女達とだからこそ、貧乏軍団はギャグになるのだ。

貧乏軍団ってなんだ?
まず、家は借家じゃなきゃいけない。
うちは貸しアパートだったし、他の2人は公団の団地だった。
お習字セットや裁縫セットを購入する時にハイグレードタイプを買える家の子はダメだ。
家が貧しくないと入れないのだ。

家が貧しいのは結構恥ずかしい。でも、それは自分のせいじゃないもんね。
貧乏なんかクソ食らえ。卑屈になるな。
堂々と胸を張って貧乏を謳歌しよう!というのが貧乏軍団の志だ。

ちなみに貧乏軍団の花は「貧乏草」だった。
ハルジオンという名前があるのに、なぜかそう呼ばれている花。

貧乏軍団の歌というのもあった。
♪おれたち 貧乏軍団だ!
とかいう、きわめて単純で短い歌だった。
なぜ女の子ばかりなのに「俺達」なのかは分からない。
多分、そのほうが語呂がいいのと貧乏人らしい感じがしてはまったのかもしれない。

今でも時々、貧乏軍団という言葉が頭をよぎる。
 

 

幸せなこと

パンは○○のものでないと、お醤油はどこそこのもの、お味噌は○○で。
お米もお豆腐も作出農家や求める店が決まっていて、という口の肥えた裕福な家庭の息子が言いました。

本当は何でも美味しい、美味しいと思えることの方が幸せだよね、と。

何を食べても滅多に首を縦に振らない彼のお父さん。
毎日のご飯は楽しいだろうか。

知り合いで医療ミスのため、体をめちゃくちゃにされてしまった人がいる。
もう二度と昔の体には戻れない。
生と死の境目にも何度も立たされた。

周りは怒りに体を震わせて、毎晩涙してその担当医を憎んだのに、
その人は最初からずっと一貫して「憎い」という感情を表に出すことはなかった。

それは数年たった今でもそうらしいのだ。
普通なら裁判だし、慰謝料の一つもとらないことにはあまりにもひどい話ではないか。

けれどもその人は言った。
「自分でも不思議なんだけどそういう感情が自分の中のどこを探してもないんだ」

その人は昔から聖人君子だったのか?
いや、決してそうではなかったはずだ。私の知る限りでも相当の悪だ。

死の淵を歩き続けて悟りを開いてしまったのだろうか?

私はふと、考えた。

それは彼にとって幸せなことなんじゃないか。
人を憎むという負の感情は自分の中にマイナスのエネルギーがたまって、決して自分のためにはならない。
憎むこと自体がその人にとっての苦行だ。

体を不自由にされ、精神までもが歪んでしまったらそれこそ生きているだけで辛かろう。
それを支える家族も一緒になって憎しみを背負うことになるだろう。

その人は自分の運命を受け入れて自分の力で今、立ち直りつつある。
何かと引き替えに得たり、失ったり。

幸せって自分次第なんだな、って本当に思う。

 

これからご紹介する2つは、たまたま同じようにプリントアウトしてまで
読んで下さっているというお話をうかがったものです。

なりたい自分

イメージトレーニングってとっても大切じゃない?何をするにも・・・

たとえば踊りなんかでも、テクニックどうこうではなくて、雰囲気をしるというのかな。
ジャンプ一つとっても、もっと強く足を蹴って、と思うよりも
「ここは稽古場じゃない、大空の下にいるんだ」と思うだけで高くなる。
視覚で見た天井をとっぱらってしまうの。そして心の目で青い空を空想するんだ。

自分の理想の生き方、ってみんなあるよね?
モットーとするもの、これだけはしたくないとかっていうことの他に、具体的にどうありたいか。

人に優しい人間でありたい・・・そう思うのならまず笑顔でいる時間を多くするよね。
笑顔は人の心を和ませるもの。
そして人の話をよく聞こうと努力するよね。みんな聞いて欲しいのだもの。

美しい人間でいたいと思うのなら人の見ないタンスの中だってお掃除したくなる。
だって美しい人に汚れた部屋は似合わないもの。

オードリーみたいになりたいな、そう思うのならとりあえず眉毛だけでもマネしてみる。
ローマの休日の時のアン王女みたいな気分になってあら不思議、背筋ものびて口調も
ダラダラとした話し方からきりりとしたものに変わっちゃう。

なりたい自分が想像できたら次の段階。
そういう自分が誰かと関わっている風景を想像するの。
そしてとてもうまく行っている様子を頭にたたき込む。

もしも失敗したらどうしよう、きっとダメに決まってる、とネガティブな想いばかりを胸にためていたら
うまく行くものも行かなくなる。

自分の体からくすぶった黒い煙を出すのはやめよう。

本当は0(ゼロ)のところにいるのに自分から−の方向に舵を取るのはやめて、
+の方向に進路をとろう。

いつかああなってみせる!いつかこうしてやる!のスタートは今、なのですもの。

2001/11/25の「なりたい自分」は印刷していつも手許に置いています(NARIさん)

 

白いものと黒いもの

腹の中で何か悪いことを考えていると、黒い空気がその人の周りを包んでいるかもしれない。

妬んだり、意地悪な気持ちになったり、怒ったりすると人は毛穴から黒いものをプツプツとはき出す。
いつもいつもマイナスな気持ちでいると、何となくどんよりとした空気が常についてくる。

文句ばかり言う人、心配ばかりしている人、まず否定から入る人、決して心から誉めない人、
自分以外の人の幸せを自分のことのように喜べない人。

もしもそんな人がいたら気持ちを変えていこう。

やさしい気持ちでいれば、きっとその人の周りはピンク色だと思う。
色眼鏡で見ることなく、素直でいられたら、きっとその人の周りを白い空気がさわやかに包むのだろう。

俗に言う、「オーラ」なるもの。
その人の生きる力、体の中からわき出るプラスの力。
オーラのある人は、とにかく明るいし、前向きだ。黒いものなんか跳ね返してしまうくらいに。

病気の時はとにかく呼吸をしたり、血液を循環させたりするのに精一杯なので、オーラは出ない。

いつも人の悪口ばかり言っていると黒いものが出てしまう。
自分も汚れてしまうし、周りの人も汚してしまう。

だから、出来るだけ白いものが出るようにずっと生きていきたいと思う。

 

 2002年4月19日の「白いものと黒いもの」です。
 プリントアウトして、いまだに日々目を通してます。(tomatoさん)

 

誰かが見ている

人知れず、我慢したことだって、分かって貰えなかったことだって、
そっと陰でやっておいたことだって、みんなみんな、誰かが見ている。

誰にも誉められなかったけど一生懸命やったこと、
数字に残らなかったことだって、絶対に誰かが見ている。

誰も自分のことなんか分かってくれない、こんなに頑張ってるのに認めて貰えない、
そう思っていませんか?

長い長い人生のスパンの中でたった今の現状はゴマの1粒のようなもの。
今があってこその未来。

今やっていること、今までやってきたことが未来の何かにつながってる。

だから諦めないで。悲観しないで。
無駄な事なんて、何一つない。
例えそれが、悲しい出来事であっても、つらい経験であっても、
それは自分にとって必要なものだから身の上におこっている。

自分のしてきたことがすべて目の前にほうら、見てご覧、と映画のように
流れたときに、恥ずかしい気持ちで一杯にならないように、生きていきたい。

 誰かが見ている・・っていうのあったね。毎日の生活頑張ってることきっと誰から
見ているって言うこと。(tomokoさん)

Kasumiさんの温かくて優しくて芯の強い人柄がすごく感じられて、
 私もこういう気持ちを感じ取ることができる人間になりたいなと思います(かよっちさん)
 

 

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